
これまでこのブログで私は、
「最近はテレビをほとんど見ない」だとか、
「ニュースの偏向報道にはホントむかつく」など、
どちらかといえばテレビに対して距離を置くような意見をたびたび書いてきましたし、実際にテレビを見る時間はかなり少ないのです。
ネットニュースやSNSで事足りる現代において、受動的なメディアであるテレビは、もう時代にそぐわないものだと決めつけていますから。
しかし、今朝ふとした瞬間に、自分の行動が自分の言葉と矛盾していることに気がついてしまったのです。
毎朝の「儀式」に隠された本音
私の朝のルーティーンの一つに、地元紙である「長野日報」を手に取るというものがあります。隅々までは目を通さず、1面は見出しだけチェックした後、特に気になった記事を斜め読み。次に訃報欄。そして最後に時間をかけて見ているのは、実はテレビ番組欄なのです。

それこそ「目を皿のようにして」という表現がぴったりなほど、朝から深夜まで、どのチャンネルで何が放送されるのかを一通りチェックします。そして最後には必ず、こう独り言を漏らすのがセットになっています。
「……今日もおもしろそうな番組、ねぇなぁ」
これ、よくよく考えてみるとおかしな話ですよね。本当にテレビに興味がないのであれば、そもそも番組表なんて見もしないはずです。
わざわざ細かくチェックして、わざわざ落胆している。
これは裏を返せば、「何か面白いものがあるのではないか」とテレビに並々ならぬ期待を寄せている証拠に他なりません。
そう、自分では「テレビ離れ」をしているつもりでしたが、その実、私は相当な「テレビ好き」だったというわけです。
「全員集合」から始まった、僕らのテレビ黄金時代
なぜこれほどまでにテレビに執着してしまうのか。その理由は、やはり私たちが育ってきた時代背景にあるのでしょう。私たちの世代にとって、テレビは単なる家電ではなく、娯楽の王様であり、生活のすべてでした。
特に忘れられないのは、あの伝説的な番組、『8時だョ!全員集合』です。
今でも鮮明に覚えているのは、記念すべき第1回のオープニングシーン。暗転したスタジオの中、若き日の加藤茶さんが床をドラムスティックで小気味よく叩きながら、スポットライトを浴びて登場しました。スタンドマイクの支柱まで楽器のように鳴らしながら立ち上がるあの躍動感……。あの瞬間に感じたワクワク感は、半世紀以上経った今でも色褪せることがありません。
土曜の夜8時、家族全員でテレビの前に集まり、お腹を抱えて笑ったあの体験。あの熱狂を知っているからこそ、自分たちの血肉の中に「テレビへの愛」が深く刻み込まれてしまっているのだと思います。
もう一つ鮮明に覚えているのは小学二年生の時、授業中にわざわざ学校の応接室に集められて観たアポロ8号からライブで送られて来た月面の様子。英語の交信音声とともに月のクレーターがテレビに映し出されていた。
ど田舎のひと学年ひとクラスという小さな学校(その後この地域で最大の学校に転校してカルチャーショックだった)でしたが、「うわぁ世界って宇宙ってすごいね」と、皆で話した覚えがあります。
「好き」だからこその厳しい眼差し
かつてのテレビは、もっと自由で、もっと挑戦的で、今のような単にタレントがバカをやっているところを見せるような隙などはなく、本当に作り手の熱量が画面越しに伝わってきました。
それに比べて今の番組はどうでしょうか。どのチャンネルを回しても似たような情報番組や、タレントがひな壇でコメントするだけの構成ばかりが目につきます。
私が今のテレビに幻滅し、時には批判的なことを言ってしまうのは、決してテレビが嫌いになったからではなかったのです。
むしろ、あの頃のような熱狂をもう一度味わせてほしいという、強烈な愛情の裏返しなのでしょう。
「おもしろくない」と文句を言いながらも番組表をチェックし続けるのは、心のどこかで「いつかまた、度肝を抜くような番組に出会えるはずだ」と信じているからだと思われます。
テレビとの「腐れ縁」を楽しんでいく
結局のところ、私にとってテレビは「嫌いになれない幼馴染」のような存在なのかもしれません。かつての輝きを失った姿を見て嘆きつつも、どうしても放っておけないのです。
これからも毎朝番組表を眺めては「今日もダメだなぁ」とぼやく日々が続くことでしょう。でも、そうやってツッコミを入れながら新聞をめくる時間も、リタイア後の穏やかな日常の一部として楽しんでいければ、それはそれで幸せなことなのかもしれません。