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自ら晩節を汚す超有能な学者たち [No.2026-042]

最近、SNSや動画サイト、あるいはたまに流れてくるテレビ番組を見ていて、なんとも言えない「胸の痛み」を感じることが増えました。

 

かつて私たちが尊敬し、その知性に憧れたはずの「知の巨人」たちが、ご自身の専門外である政治や経済について、耳を疑うような極論や、いわゆる「トンデモ論」を堂々と開陳されている姿を目にするからです。

本来であれば、その道の権威として静かに、あるいは深く後進を導いてほしい方々なのですが、一体なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか。

 

今回は自分自身の勉強のために、そんな「超有能な学者さま方」の現在地と、その背景にある心理について少し考えてみました。

 


1. 輝かしい実績と、越境する「毒舌」のギャップ

まずは、私たちが知る「本来の素晴らしいお姿」と、最近物議を醸している言動のギャップを見てみましょう。どの方も、その道のプロとしては非の打ち所がない実績をお持ちです。

  • 山極壽一先生
    世界的な人類学者であり、霊長類学の権威です。ゴリラ研究を通じて人間社会の起源を探るその視点は、多くの人を魅了しました。しかし、政治の話題になると一変。テレビ番組で高市総理の容姿を動物に例えるなど、専門性とは無縁のルッキズム(外見至上主義)に基づいた蔑みを語り、多くの視聴者を困惑させました。

  • 和田秀樹先生
    医師であり「老年精神医学」の専門家です。高齢者がいかに健康に、楽しく生きるかという著書はベストセラーの常連。私も何冊か読んでファンになりました。
    しかし、ご自身のYouTubeチャンネルでは、経済学や政治学の主流の考え方とは大きくかけ離れた、主観の強い持論を熱弁されています。医療の知見を期待して観ていると、その極端な政治・経済観に戸惑ってしまいます。

  • 茂木健一郎先生
    脳科学者として「アハ体験」を広めた功労者です。
    しかし最近では、日本のテレビ文化や特定政党、あるいは個人に対する攻撃的なSNS投稿が目立ちます。脳科学的なエビデンスに基づかない感情的なレッテル貼りが増えており、「学者の客観性」はどこへ行ったのかと首を傾げたくなります。

  • 田中優子先生
    江戸文化研究の第一人者で、法政大学の前総長でもあり江戸の循環型社会や文化への造詣は深く素晴らしいものがあります。
    しかし、テレビのコメンテーターとしては、特定の政治的立場に偏った発言や、事実関係の確認が不十分なままの政権批判が目立ち、専門家としての信頼を損ねている場面が見受けられます。

 


2. なぜ「知の巨人」は迷走してしまうのか?

こうした事態はなぜ起こるのか?
気になったので、AIのGemini(ジェミ兄ぃ)に聞いてみたところ、非常に興味深い回答が返ってきました。その概要をまとめると、以下のようになります。

有名学者が専門外で迷走する背景には、まず「万能感の罠」があります。

一つの分野で頂点を極めたことで、自分の思考法ならどの分野も解決できると錯覚してしまう現象です。そこに「メディアのニーズ」が拍車をかけます。テレビやネットは中立な意見より、権威ある人が放つ「わかりやすい極論」を求めるからです。

さらに、自身のSNSやYouTubeを持つと、批判を遮断しファンだけが称賛する「エコーチェンバー現象」が起き、客観的な修正機能が失われます。

結果、本来の学術的誠実さよりも、主観的な正義感や感情論が肥大化し、専門外の領域で事実誤認や倫理を欠く発言に繋がってしまうのです。

 

なるほどそういうことか?!
でも同時にこういう事はだれでも気をつけなきゃいけないことだな、とも思いました。

 


3. 「万能感の罠」という、逃れがたい誘惑

ジェミ兄ぃの分析のなかで、なるほど思ったのが「万能感の罠」という言葉です。

 

これは人間にとって、もっとも抗いがたい麻薬のようなものかもしれません。 「自分はこれほど難しい学問を修め、世界に認められたのだから、政治や経済のような『正解のない問題』についても、他の凡庸な専門家より正しく見抜けているはずだ」という自負。

それが、いつの間にか「何を言っても許される、自分は常に正しい」という全能感にすり替わってしまうのではないでしょうか。

 

特に、長年大学というピラミッドの頂点にいたり、周囲が「先生」としか呼ばない環境に置かれ続けたりすると、反対意見を耳にすること自体がストレスになり、自分を否定するものを「無知な大衆」として切り捨ててしまう。これこそが、知性が生み出した怪物理論への入り口に思えてなりません。

 


4. 主観の肥大化とメディアの責任

山極先生の「容姿への言及」や、和田先生の「主流から外れた経済観」といったものは、本来の学問的誠実さとは対極にあるものです。学問とは本来、徹底的に客観的であろうとし、自説の誤りを常に疑う作業のはずですから。

 

しかし、そこに「メディアへの露出」というガソリンが注がれます。テレビやYouTubeで「先生、さすがです!」「もっと言ってください!」ともてはやされるうちに、かつて持っていたはずの慎重さは消え失せ、主観がどんどん肥大化していく。

特にYouTubeは、自分の意見に反対するコメントを削除したり、見ないようにしたりすることが容易です。そうして出来上がった「裸の王様」の状態が、私たちの目に「晩節を汚している」と映ってしまうのでしょう。

 


5. まとめ:私たちは「権威」とどう付き合うべきか

かつて素晴らしい功績を残した先生方が、専門外のことで論理を失い、感情的な攻撃に走る姿を見るのは、一ファンとしても、一国民としても本当に寂しいものです。

 

山極先生や和田先生の事例は、私たちに一つの教訓を与えてくれます。それは、

「どんなに優れた知性であっても、専門外ではただの素人になり得る」

という当たり前の事実です。

 

私たちは、その先生が「何の専門家なのか」を常に意識しなければなりません。

ノーベル賞学者が語る政治論よりも、地道に現場で統計分析している無名の若手研究者の言葉の方が真実に近いことだってあるのです。

 

先生方には、願わくば今一度、ご自身のルーツである学問の誠実さに立ち返っていただきたい。そして私たちも、権威を盲信せず、自分の頭でフラットに情報を吟味する強さを持ちたいものですね。

 

そして自分自身も「俺これ知ってんだぜっ」なんて偉ぶらずに、常に客観的にモノを見る目を失わないように気を付けて生活してゆきたいですね。

 

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