なにかの「物事」、特に「行動」をするのに「理由」が必要になる事が多い。
と、いうか「理由」を必要とされたり、自分で求めたりする事が多い、と言ったほうがいいだろう。
しかしそれは本当だろうか?本当にその「理由」が無いといけないのか?
答えは「否」だと断言しよう。
29日の日本経済新聞紙面版に
『60歳「理由なき激走」』という記事
があった。「ランナーのホンネ」というシリーズのうちの一つの記事。
このシリーズのインターネット版への掲載は随分遅れていて、この記事はまだ掲載されていないが、物事に理由が必要なのだろうか?という問いに関係した内容を以下抜粋させていただいた。
大学受験を終えた時、つまり大学に入学したばかりのころ「もう、〇〇のために△△するのはやめよう」と決めた。まず目的ありきの時間の使い方(人生)にむなしさ、寂しさのようなものを覚えたのだと思う。
人はどうゆうわけか、目的探し、理由探しをしたがる。目的、理由のない行為には意味がないとでもいうかのごとく、今取り組んでいることの目的や理由を探し、それを定めることによって納得し、満足する。
私はそういう生き方になじめない。「そんな事しても意味ないじゃん」「ムダじゃん」とよくいうが、意味って必要ですか?ムダじゃ、いけませんか?
<中略>
哲学者。内山節さんが群馬県上の原村に移り住んだ訳について「『里』という思想」に後記している。
「もしかすると理由自体が存在しなかったのかもしれないのである。つまり、私に問いかけた人も、それに答えようとした私も、人間の行動には理由があるという観念にとりつかれながら会話をしていたから理由を探しただけであって、本当は、人間はときに何の理由もなく行動することがあるのかもしれないのである」
<以下略>
とても今の私自身の心理に合う話だ。
自分自身、会社を辞める時、それも早期退職を選択した時に、その「理由」は理由らしいものでもなんでもなかった。
その時の気持ちは、簡単ではあるが当時以下の記事に書いてある。
読み返してみたら、やはり「理由らしい理由はない」とはっきり書いてあったよ。
今現在、中小企業診断士の資格を取ろうと勉強を続けているが、では”コンサルタントとして独立するため”、というようなはっきりした理由があるわけでもない。
ギターの修理をしているが、これこそ理由に乏しい。
要は、「やりたいからやっている」のであって、何かの理由があるわけではないし、理由がないからソレはムダな事だ、とも思わない。
よく「何故働いているのか?」という問いがあって、きれいに答えているのを見かけるが、突き詰めていけば、
働く理由は給与を得るため
というシンプルな答えに、100%たどり着くのだ。
反論はあるかもしれないが、では「無給で同じことをしますか?」と聞けば100%ノート答えるだろう。
「やりがい」や「使命感」は、もちろんあったほうがいいが二の次の理由ということだ。
どうだろうか?
一度目の前の物事から「理由」を排除してシンプルに見直してみてはいかがだろう?
このブログについて知りたい方はこちら
=====
今日の一曲
「チューリップ」はいだしょうこ
*本ブログに掲載している広告とリンクを除く全ての写真はtomo1961又はその家族が撮影したものです。
-----
私のもう一つのブログ「この世は話題に事欠かぬ」も、是非御覧ください。
世の中の話題について自分なりの咀嚼結果を残しています。
こちらからどうぞ↓
https://tomo1961.hatenadiary.com/