tomo1961’s blog

-55を過ぎてギターを始めた男が早期退職した後の顛末'ing-

「信義誠実の原則」が通用しなくなってるなぁ [No.2022-037]

 

最近気になっていることがある。それは、

 

「信義則」が通用しない事が散見される。

 

という話。

 

「信義則」とは正式には「信義誠実の原則」の事

 

先日私のもう一つのブログ「この世は話題に事欠かぬ」に以下の記事を書いた。

tomo1961.hatenadiary.com

 

この記事は「言葉の解釈を正しくしなきゃだめぢゃん?!」という指摘内容だが、その後のTwitter上でのひろゆきさんへのカウンターが、私の思うには「信義誠実の原則」に大きく反していると思ったのだ。

 

先ず、普段は多くの人は気にもかけていないようだが、我々は普段の社会活動において、この「信義誠実の原則」が”通用する”という前提で生活している。

 

意識していない人が多いが、意識したほうがいい。

 

「信義誠実の原則」とは「信義則」と略されることもあるが、一般社会活動で、お互いに相手の信頼を裏切らないよう行動すべきである、という法原則のこと。

 

で、Wikipediaから抜粋させてもらうと、

”私法の領域、特に契約法の契約当事者間について発達した法原則であるが、社会的接触のある者の間の私法関係に、さらには、公法の分野においても、その適用は認められている”

という事になっている。

 

要は、法律やルール、合意や約束などの基礎になっていて、殆どの社会人は意識せずとも普段「信義誠実の原則」の元で活動し生活している、というわけ。

 

例えば、妹が冷蔵庫に大好きなプリンを入れていおいて「おにーちゃんこれ私のだから食べちゃダメだよ!」と言っていたのに食べてしまった兄は「信義誠実の原則」に反したと言える。

 

例え母親が「兄ちゃん部活やってきておなかすいてたからいいの!」と言ってくれたとしても兄が「信義誠実の原則」に反したという事実が覆るわけではないね。

 

これは日本では、民法1条2項に規定されていて、法解釈場面の基礎にもなっている。

 

要は、約束した事や、法律の下の活動で、事後それを破ったり、解釈を変えたりして守らず、

 

そんなの知らねーよ

 

って知らばっくれるのが「信義誠実の原則」に従わなかった、という事になる。

 

「信義誠実の原則」は法原則であり、契約解釈の基準であって、約束事に具体的な明記がなくてもそれを補充する機能を有する、という事になっているから、暗に決められている不文律、というようなものとも言える。

 

さて、上記のひろゆきさんの話に戻るが、彼がツィートした後、とある活動家側から以下のような反論があった。

 

「信義誠実の原則」の元で発言するなら、”座り込み”は辞書に定義されている意味で解釈されるべきだし、我々はそういう一般則を基に生活、活動している。

 

だから、事が起こった後、

 

そんなの知らねーよ!一日一秒でも座込みなんだよ!

 

と知らばっくれてしまうのは「信義誠実の原則」に反する。

 

要は「信義誠実の原則」が通用しなくなってきていて、こうなってくると、

 

まともな論議が出来ない社会になってしまう。

 

本当に恐ろしい

 

今日本社会はこのような風潮になっていて「信義誠実の原則」を破っていてもその結果を支持する人も多い。

 

こういう怖い社会になっていることを知っておいたほうがいいよ。


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「Sympathy For The Devil」The Rolling Stones

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