最近気になっていることがある。それは、
「信義則」が通用しない事が散見される。
という話。
「信義則」とは正式には「信義誠実の原則」の事。
先日私のもう一つのブログ「この世は話題に事欠かぬ」に以下の記事を書いた。
この記事は「言葉の解釈を正しくしなきゃだめぢゃん?!」という指摘内容だが、その後のTwitter上でのひろゆきさんへのカウンターが、私の思うには「信義誠実の原則」に大きく反していると思ったのだ。
先ず、普段は多くの人は気にもかけていないようだが、我々は普段の社会活動において、この「信義誠実の原則」が”通用する”という前提で生活している。
意識していない人が多いが、意識したほうがいい。
「信義誠実の原則」とは「信義則」と略されることもあるが、一般社会活動で、お互いに相手の信頼を裏切らないよう行動すべきである、という法原則のこと。
で、Wikipediaから抜粋させてもらうと、
”私法の領域、特に契約法の契約当事者間について発達した法原則であるが、社会的接触のある者の間の私法関係に、さらには、公法の分野においても、その適用は認められている”
という事になっている。
要は、法律やルール、合意や約束などの基礎になっていて、殆どの社会人は意識せずとも普段「信義誠実の原則」の元で活動し生活している、というわけ。
例えば、妹が冷蔵庫に大好きなプリンを入れていおいて「おにーちゃんこれ私のだから食べちゃダメだよ!」と言っていたのに食べてしまった兄は「信義誠実の原則」に反したと言える。
例え母親が「兄ちゃん部活やってきておなかすいてたからいいの!」と言ってくれたとしても兄が「信義誠実の原則」に反したという事実が覆るわけではないね。
これは日本では、民法1条2項に規定されていて、法解釈場面の基礎にもなっている。
要は、約束した事や、法律の下の活動で、事後それを破ったり、解釈を変えたりして守らず、
そんなの知らねーよ
って知らばっくれるのが「信義誠実の原則」に従わなかった、という事になる。
「信義誠実の原則」は法原則であり、契約解釈の基準であって、約束事に具体的な明記がなくてもそれを補充する機能を有する、という事になっているから、暗に決められている不文律、というようなものとも言える。
さて、上記のひろゆきさんの話に戻るが、彼がツィートした後、とある活動家側から以下のような反論があった。
そんな事は書きません
— 共産党九州常任委員会 (@CUBERCastro) October 3, 2022
1日1秒でも座れば座り込みをしたことになります https://t.co/2cMMbHBCXh
「信義誠実の原則」の元で発言するなら、”座り込み”は辞書に定義されている意味で解釈されるべきだし、我々はそういう一般則を基に生活、活動している。
だから、事が起こった後、
そんなの知らねーよ!一日一秒でも座込みなんだよ!
と知らばっくれてしまうのは「信義誠実の原則」に反する。
要は「信義誠実の原則」が通用しなくなってきていて、こうなってくると、
まともな論議が出来ない社会になってしまう。
本当に恐ろしい
今日本社会はこのような風潮になっていて「信義誠実の原則」を破っていてもその結果を支持する人も多い。
こういう怖い社会になっていることを知っておいたほうがいいよ。
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今日の一曲
「Sympathy For The Devil」The Rolling Stones
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