人は常に「一体何が正しいのか?」を考えて生きている、と思う。そして大抵はその「正解」に辿り着くことが出来る。
我々人類はすごい能力を持っているのだ。
しかし、時として「正解」なんてモノが無い時や、既に答えが出てしまっているような時に、それでもその無い「正解」を追い続けてしまう事がある。
仕事をしていると、チームやプロジェクト全体が、間違った方向に突き進んでしまっていたり、間違った思い込みに沈んでいる時があるのではないか?
若い頃、私がある製品開発のプロジェクトの一員だった時の事だ。
それはシリーズ製品で、1つのメインユニットと5つの付属ユニットがあり、それら全ての完成が日程内でなければならなかった。
プロジェクトはメインユニットを担当するチームと付属ユニットとに2つに分かれており、私は付属ユニットのチームだ。
5つの付属ユニットは、その生産設備が全て共用のため、順次立ち上げてゆく計画になっていたのだが、3番めのユニットで不具合の発生した時の話だ。
その時は、2番めのユニットが生産ライン上にあり、3番めのユニットがこれ以上日程遅れになると4番めのユニットの着手が遅れ、それは全体の日程が守れなくなることを意味していた。
3番めのユニットで発生中の不具合を確認するために、どうしても丸一日生産設備を使わなくてはならない、という状況において、その打ち合わせでなんと、現在2番めのユニットを生産中のラインを止めて確認しよう、という話になってしまったのだ。
不具合の3番めのユニットを優先して、ラインを止めてしまえば、2番めのユニットの日程が遅れてしまう。
その遅れは3番、4番、5番と続く生産の中で挽回することは不可能だった。
これは必然的に全体日程が「遅れ」でゴールすることを意味する。
一方、2番めのユニットを止めずに、不具合の確認が遅れれば、やはりその分全体日程が遅れる。
要は、3番めの不具合が発生したその時点で日程は破綻しており、全体が遅れとなる事は必然となったのだが、プロジェクトの錚々たるメインメンバー=当時の私の先輩たちは、誰一人としてそれに気がつかないまま(または認めないまま)、繰返し同じ話で1時間、2時間と過ぎてゆく。
私は一番の下っ端だったから本来口を挟めるような立場ではなかったのだが、上に書いたように既に負けが決まっているのではないでしょうか?と発言した。
その場は数分間、誰も一言も発せずシンとなった。
誰一人現実を認められなかったのだろう。
しかし、そのシンとなった数分間で皆の冷静が戻り、論議は何日間の遅れを宣言すべきか?を決め、そしてプロジェクトのリーダーが関係部門に説明する、という次の一手(残念な一手となった)を決定するための時間になった。
私の経験でもこれほどはっきりと皆が混沌に沈んだのを見たのはこの一度だけだが、大なり小なりこう言うことは誰でも経験があるだろう。
それに気がついたのなら、自分の身分を恐れず、勇気を持って発言すべきだ。
この例で言えば、
・俺ごときが発言するのは正しくない
・先輩たちが間違っているはずがない
・先輩たちは気がついた上で論議しているのだ
などなど、おそらくすべて正解なのかもしれない。どれも正解ではないのかもしれない。
だから、誰かが決めてくれるであろう「正解」をさがすのではなく、自分の頭が考えて導き出した「正解」に従って生きてゆこうではないか?
どうだろうか?
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今日の一曲
「黄昏にバカ話をしたあの日を思い出す時を」あいみょん
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