tomo1961’s blog

-55を過ぎてギターを始めた男が早期退職した後の顛末'ing-

退職後の世界をどう生きるか? [No.2021-042]

定年後の世界のこと。

 

定年退職後は引き続き再雇用または別の職について働き続ける、という方は良いのだが、既に経済的な見込みがついているとか、フリーランスで少しの収入を得ながら気楽に生きる事にして、晴れて「自由」の身を手に入れた、という方々の今後は、本人が気がついているかどうかに関わらず、大きく2つに分かれてゆくと思う。

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また、続けて働く人も65歳という節目を通過した後、同じ「自由」を手に入れることになる。

 

固くて哲学みたいな話になってしまうが、あなたはその「自由」というものがどういうものだと考えているだろうか?

 

「自由」とは

A.自由奔放で日時や場所に拘束されない暇な状態のこと。

B.自分の思うことが出来るということ。

 

もしあなたが、退職日の夜に、

「あー明日から俺は自由の身だ!決まった時間に起きなくていいんだ。いくらでも寝ていられるぞ!」

と思うとしたら、Aの考え方をお持ちだという事だ。

 

「よし明日は朝のうちにあれを片付けて次にあれとあれ、午後は...」
と思うとしたら、Bだろう。

 

Aでいう「自由」とBの「自由」は違うのだ。

 

Bに該当される方々はいい。これからはその「自由」な世界の中で精一杯生きればいいのだ。

 

問題はAの方。

以下論議してゆこう。

 

退職の日、奥様に「ご苦労さまでした。でも退職した後もきちんとした生活してよ」と言われ、

 

「いやいやいや、しばらくはゆっくりさせてよぉ」という。

 

はて?、それは誰に言っているのだろうか?奥様に言ってる?

 

「だってさぁ40年も真面目に働いてきたんだから、許してよぉ」

 

ほぉ、誰に許してもらったり、してもらえなかったりするのだろう?

 

長いこと会社員でいた方は、家に帰ると奥様という社長、会社では上司という、どちらにも”上役”がいて、何をやるにも”許可”なり”却下”をしてくれていた。

 

”許可”も”却下”も自分でしなくても、今までは誰かがしてくれていたのだ。

 

今年88歳になる、先月から介護保険のお世話になり始めた私の父親も、そういうBの側の人だ。

 

そうと気がついたのは、父が退職して10年ほど経った頃だろうか?

母が「そんなに醤油をかけると血圧がまた上がるから気をつけなきゃ」と言うと、父が「はいはい、でも今日は許してください」と言ったのだ。

 

それから注意して聞いていると毎日のようにこの類いのやり取りがある。

 

父と同年代の私の母方の叔父も同じだ。父とは別の会社だが東証一部上場企業でかなりの役職(本部長クラスだったと思う)で退職したが、法事なんかで集まった時に叔母と似たような事を言ってやりあっているのを目にする。

 

さらにこういう人に共通しているのが「おーぃ」だ。

 

下手をするとそのおーぃもなく、「飯」,「箸」などというと目の前に出てくるという生活だ。中には奥様が気を利かせて何も言わなくても一通りの段取りが進んでゆく、という夫婦もいたと聞く。昭和一桁生まれの、高度経済成長を支えた多くの企業戦士がこんな生き方をしてきたのではないだろうか?

さすがに令和の現代では既に絶滅危惧種になっているだろうが。

 

今は引きこもっている父も、10年くらい前までは元同僚の方達と交流していた。その同僚の面々は何十年も前からうちに出入りしていたので、私も若い頃から知っている。

その方々の中にもAに属すると思われる方が何人かいた。

 

しかし、今でも元気で父の様子を見に来てくださるのは明らかにBに分類される方々だけだ。聞くところでは私がAだと思っていた方々は既に亡くなっているか、体の自由が効かず表に出られなくなっているそうだ。

 

”観察研究”と言うにはサンプル数は少ないが、私の分類は的を得ていると密かに自賛している。

 

Aの人々は退職後「自由」な世界の中に放り出され(たと錯覚し)、何をしたら良いのかわからず、行く先を見失い、真綿で首を絞められるように時間の流れに抗うこともなく朽ちてゆく。

 

Bの人々は「自由」な世界に飛び込み、これを謳歌し、果敢に”時間”に立ち向かって楽しく健康に生きている。

 

同じ「自由」という単語だが、それぞれの意味が全く違うのだ。

 

定年退職を扱っている書籍や、このブログと同様のインターネット上に散らばっている記事には、たいてい箇条書きで「好きを探す」,「夫婦で楽しむ」,「趣味を持つ」なんて事が挙げられている。

 

しかし果たして、このAに属する方に、定年前後そんな事を言ってみたとしても、「いやぁ私は趣味がなくてね」,「趣味が見つからなくてねぇ」,「毎日やることがなくてさぁ」なんて、誠にのんきに構えている事がほとんどではないのか?

 

まだ首に巻き付けられている真綿がゆるい段階だ。

 

そもそも、そういう方々が自らの行動で、この混沌のインターネットで適切な情報に辿り着けるとも思えない。

だから今この記事を読んでくれている方も全てBに属す方だろう。

 

 ここに、Aのスタイルで定年退職を迎え、「定年退職なんて怖くない」という物語を書籍として上梓されている方がいる。これは私が退職後最初に読んだ本だ。

定年退職なんて怖くない

定年退職なんて怖くない

 

 この著者:あこがれジョージ様は本当にここに書かれているような、ほぼAに属すると思われる人なのだろうか?

答えはおそらく”NO”だ。

問題意識を持ち、複数の書籍を出し、憶測だが類似のペンネームで同じ文調の本が出ているので、複数のペンネームをもって執筆活動をされていると思われる。

だから彼は完全にB側の人だ。

 

なんと素晴らしい!

 

ジョージ先輩、と呼ばせてもらいたいくらいだ。

 

では一体Aに属す人はどうすればよいのか?

 

ずばり!「生き方を変える」しかない。それも遅くとも50台にだ。もしかしたらアラフォーくらいでないと本当のところ間に合わないのかもしれない。

 

ここでいう「生き方」とは、誰の世界を生きるか?という事だ。

 

あなたがあなたの世界を生きているのなら、醤油を使うのに誰の許可が必要なのか?その適切な量がどのくらいなのか、は自分で決めなければならない。わからなければ自分で調べるのだ。

 

私達は誰か他人の人生をきているのではないのだ(これはどこかの偉い人の言葉のパクリかもしれないけど)。

 

あなたはあなたの人生を生きている。これは自分勝手、勝手気ままに生きていいという事ではない。リスクも幸せも同時に全て自分で背負っているという事だ。

 

退職後も家族と仲良く幸せに生きたいのなら皆に優しく生きる。極論だがそれは「家族と仲良く幸せに生きたい」というあなたが決めた事を実現する手段だ。

そうでなく、もしあなたが「もう家族とは離れて自分一人で人生を生き抜きたい」と思うなら手続きの上で別れればいい。

 

自分が決める事なのだ。

 

定年後 - 50歳からの生き方、終わり方 (中公新書)

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  • 作者:楠木 新
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自分で決断してゆくには知識や常識が必要だ。だから本は読み続けたほうがいい。

tomo1961.hateblo.jp

 

他人の人生を生きるのではない。わけのわからない情報に惑わされてはいけない。

だからテレビや報道に呑み込まれてはいけない。

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そして定年後の運命を自分で決めるために、出来る限り早い時期から考えて計画的にすすめるべきだ。

tomo1961.hateblo.jp

 

ここまで読んでいただき、皆さんはどう考えるだろうか?

 

私は「趣味がみつけられない」と言っている人が理解できない。誰でも自分の中になにかあるはずだ。

 

子供の頃を思い出してほしい。親や先生に何を言われようが没頭してしまうものがあったはずだ。親や先生に言われてあの時やむなく諦めたものはなんだった?思い出してほしい。

社会人になった後も、若い頃やりたかったがお金がなくて諦めた事はひとつやふたつじゃないだろう。

 

思い出したらすぐ始めてみよう。出来る限り早くだ。遅くとも55歳までに。

 

そしてのめり込んでみよう。そうすれば自分が何者なのか?何者だったのかを思い出すはずだ。

 

そんな人はいないと思うがもし、万が一、思い出してみたら”人生を漫然と過ごす”のが自分だ、とわかったとしたら。もし本当にそうなら仕方ない、出来る限り長く雇われて働き続けることだ。


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今日の一曲
「Desperado」Eagles

Desperado

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私のもう一つのブログ「50歳からの単独行」も、是非御覧ください。
50歳から再度山に登り始めたお話を小説風に書いています。
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